慶應義塾大学医学部

慶應義塾大学医学部 外科学教室

慶應義塾大学外科学教室の歴史

1917年、慶應義塾大学に医学部が新設され、北里柴三郎が初代医学部長となった。その3年後の1920年6月7日に済生会芝病院(現済生会中央病院)外科医長であった茂木蔵之助が初代教授となり、外科学教室が8人体制で発足した。1931年茂木蔵之助教授は第32回日本外科学会を主宰した。戦後となった1947年整形外科より外科学教授に転任した前田和三郎教授の指示で、研究分野の分担と担当者が決定した。島田信勝教授が一般外科•腹部外科を、井上雄講師が心臓外科を、石川七郎助教授が呼吸器外科を、工藤達之助助教授が頭部外科を担当することとなり、現在の一般消化器外科、心臓外科、胸部(呼吸器)外科、頭部外科(脳神経外科)の基礎となった。
1951年前田和三郎教授が第51回日本外科学会を主宰した。

一般・消化器外科

1947年島田信勝教授が一般外科・腹部外科を担当することとなり、一般・消化器外科の礎が築かれた。1956年赤倉一郎が外科学教授に就任し、食道外科を担当した。1966年、島田信勝教授が第66回日本外科学会総会を、赤倉一郎教授が第19回日本胸部外科学会を主宰した。その後学生紛争によって、体制が大きく変わり、赤倉一郎教授が1970年に、島田信勝教授は1971年に退任した。

1973年阿部令彦が外科学教授に就任した。阿部令彦教授は広く臨床成績の向上を目的としてscientific background of surgeryを確立することを目標に、食道班、胃班、大腸班、肝•胆•膵班、乳腺班、小児外科班、血管班の7臓器別編成を縦軸とし、横軸には外科代謝•栄養、免疫、外傷、ショック、創傷治癒などの研究に関する生体反応を対象とした組織を設置し、現在の一般・消化器外科の臨床、研究の礎となった。阿部令彦教授は1987年に第87回日本外科学会総会、1989年に第28回日本癌治療学会を主宰した。

1991年北島政樹が外科学(一般•消化器外科学担当)教授に就任した。1992年都築俊治が教授就任、慶應がんセンター所長に就任した。北島政樹教授は内視鏡手術、臓器移植、Surgical Oncologyを教室の3本柱として掲げた。内視鏡手術は本邦で一早く腹腔鏡下胆嚢摘出術の導入し、その後胃癌、大腸癌、食道癌においても導入され、各領域において日本をリードしている。臓器移植については移植班を新たに発足させ、1995年に胆道閉鎖症に対する生体部分肝移植を成功させた。それ以降当教室では、小腸移植を含め、現在まで約200例の臓器移植が施行されている。Surgical Oncologyでは抗癌剤感受性試験や遺伝子検査の研究、Sentinel Node Navigation Surgeryの研究は、現在の癌個別化治療に向けての研究の先駆けとなった。北島政樹教授は2000年に第100回日本外科学会総会を主催した。2005年に久保田哲朗が教授就任、包括先進医療センター長に就任した。
2007年に北川雄光が外科学(一般•消化器外科学担当)教授に就任した。北川雄光教授は新しい専門臓器選択システムや、チーフレジデント修了後のHigh volume centerでのトレーニングシステム、グローバルCOEへの参画、臨床腫瘍クラスターの発足、リサーチ専任スタッフの新設、がんプロフェッショナル養成コースの新設など、若手医師の教育システムの改革に取り組んでいる。2009年4月に外来化学療法部門、放射線治療部門、緩和医療部門の3部門からなる新しい診療部門として腫瘍センターが開設され、北川雄光教授が腫瘍センター長に就任し、2011年慶應義塾大学病院はがん診療連携拠点病院に指定され現在に至っている。

小児外科

慶應義塾大学小児外科は、島田信勝教授が1959年デトロイトのウェーン大学ジョンストン教授を訪問し、当時本邦において甚だしく立ち後れていた小児外科医の育成が必要であることを痛感し、一般・消化器外科の研究グループのひとつとして、小児外科研究グループを発足させたことに始まる。伝田俊男、勝俣慶三、秋山洋、横山穣太郎らが教室の黎明期を形作り、後に国立小児病院の基盤を築くことになった。日本小児外科学会は1964年に第1回が開催されたが、教室を代表して伝田俊男が教育講演として「緊急手術を要する新生児疾患の治療」を担当し、第2回においてもヒルシュスプルング病のシンポジストとして参加するなど、発足後短期間に飛躍的進歩を遂げたといえる。

1988年勝俣慶三から横山穣太郎にリーダーを交代。以来、ヒルシュスプルング病の研究と関連した種々の消化管運動生理・病態の研究、生体肝移植実施へ向けた準備を進めた。1995年に胆道閉鎖症術後の1症例に対して生体肝移植を成功。慶應における新しい医療の一領域が開けた。学外では、慶應小児外科門下に東海大学医学部小児外科、杏林大学医学部小児外科、金沢医科大学小児外科等の教授や、また国立小児病院外科、都立清瀬小児病院外科等の主要な小児病院のリーダーを輩出。以来各々が日本の小児外科をリードする施設として活躍している。
2001年より森川康英がリーダーシップをとり、小児内視鏡手術の普及・発展に尽力、新しい腹腔鏡手術機器の開発研究、横隔膜ヘルニアを中心とした胎児治療の研究、ヒルシュスプルング病に対する腸管神経節細胞の再生治療を視野に入れた基礎研究、横紋筋肉腫をはじめとした小児固形腫瘍研究のリーダーとして活躍した。また生体肝移植は症例を重ね、2006年には生体小腸移植も開始し良好な成績を収めた。2004年に森川康英は小児外科の初代教授に就任し、小児外科は診療科として正式に一般・消化器外科より分離独立した。また、2007年には第44回日本小児外科学会学術集会、2010年には日本内視鏡外科学会の会長を務め、慶應小児外科の勢いを披露した。

2011年には黒田達夫が小児外科2代目教授として就任。腸管神経節細胞の再生研究、小児悪性固形腫瘍幹細胞の同定、小腸・肝移植の発展等、先進の医療・研究につぎつぎと着手し、慶應小児外科を日々発展させつつ日本及び世界をリードしている。

心臓血管外科

1947年、研究分野の分担が確立され、井上雄講師が心臓外科学を担当することとなった。1951年、井上雄らは開心術のための人工心肺装置の開発を我が国において最も早くから着手し、心臓血管外科研究室が誕生した。これと平行して臨床を開始し、1952年6月、第1例手術(動脈管結紮術)が行われた。当日この手術は実況放送され、手術室は満員の見学者であったらしい。次いで1953年5月には、閉鎖性僧帽弁交連切開術に成功した。その後人工心肺の開発も進展し、1956年6月、ついに人工心肺を用いて8歳男児の心房中隔欠損症の開心根治手術に成功し、開心術時代への幕開けとなった。

1963年井上雄講師が退職し、1964年4月からは井上正講師が担当することとなった。その頃より人工弁の基礎的研究を続け1966年に初めて僧帽弁置換手術に成功した。また、同年には本邦で初めて人工心肺を用いた胸部大動脈瘤の手術に成功した。以来大動脈瘤の外科は心臓外科と並んで2大プロジェクトとして研究が展開された。同時期に胸部下行大動脈瘤の手術の補助手段として、人工血管を用いた一時的体外バイパス法(Temporary external long bypass method)を創案、以来本法は我が国において標準術式として確立した。

1972年井上正が赤倉一郎教授の後任として教授に就任し、胸部外科学を担当した。狭小大動脈弁輪に対する人工弁置換の新手術法の創案、Bland-White-Garland症候群に対する新手術術式の創案(Takeuchi法)、超低体温低流量完全体外循環法の確立などの新しい術式の開発などが発表さた。1985年には本邦初となる両心補助人工心臓を臨床応用し、また1984年第14回日本心臓血管外科学会、1986年第39回日本胸部外科学会を主宰した。

1990年井上正教授が退任し、川田志明が心臓血管外科学教授に就任した。1991年呼吸器外科が診療科として承認され、翌1992年小林紘一が呼吸器外科の教授として就任し胸部外科より独立した。教室員のなかには、心臓外科学以外の様々な分野でも活躍される方が多く、1994年日本人女性として初めてスペースシャトルコロンビアで宇宙へ行った向井千秋もその一人である。
川田志明教授は1997年第50回日本胸部外科学会、1999年慶應国際シンポジウム「大動脈基部外科の戦略」を主宰した。
2002年川田志明教授が退任し、四津良平が教授に就任した。四津良平教授は、胸骨正中切開をせずに右側胸部の小さな傷から心臓手術を行う低侵襲心臓外科手術、いわゆるMICS(Minimally Invasive Cardiac Surgery)では日本のパイオニアとして常にリードし、2009年第62回日本胸部外科学会総会を主宰、また2011年には「Mini-Mitral Workshop」を主宰した。また、広範囲心筋梗塞後の重症心不全に対する外科的治療としての左室形成術が注目されているが、この分野の世界的権威であるモナコ心臓病センターのドール教授のもとへ定期的に教室員を留学させている経験を生かし、ドール手術の日本のパイオニアとしても実績を重ね現在に至っている。

呼吸器外科

前田和三郎教授は早くから肺結核の外科治療に着目し1937年加納保之を国立療養所村松晴嵐荘に派遣し、肺結核症の外科治療に専念させた。1947年、研究分野の分担が確立され、石川七郎助教授が呼吸器外科学を担当することとなった。同年加納は外科学教室の講師となり長く肺結核症の外科治療について先進的役割を果たした。

石川七郎は肺癌の外科治療に専心し、1955年第55回日本外科学会総会において宿題報告「肺腫瘍」について肺癌の病理および病態生理について研究成果を報告した。これに引き続き1960年日本肺癌研究会が発足し現在の日本肺癌学会へと発展した。
1962年石川七郎は,当時新設された国立がんセンターに赴任し、本邦における肺癌研究の指導者として活躍し、同センター病院長、総長を歴任した。

本邦初の気管分岐部切除が当科により行われるなど呼吸器外科学の先駆的な役割を果たしてきている。1991年呼吸器外科学教室が独立し、小林紘一教授、野守裕明教授とその流れは途切れる事なく続き現在に至っております。
現在では伝統ある当科での知識、手技に加え国内外の留学経験者が持ち帰ったさまざまな知識、診療手技を融合させて臨床、教育、研究に励んでいる。

脳神経外科

慶應義塾大学脳神経外科の歴史は、後に(1962年)初代教授となった工藤達之が、1944年京都大学荒木千里教授に脳神経外科学の指導を受けたことから始まった。その後、頭部外傷、脳腫瘍、三叉神経痛などの手術症例数が増加し、Willis動脈輪閉塞症の研究などで、高い評価を受けた。

1984年、戸谷重雄が2代目の教授に就任し、中興の祖として、脳腫瘍の症例数は全国のトップレベルとなった現在の慶應大学脳神経外科の礎を築いた。慶應の看板である頭蓋底外科の礎が築かれたのもこの頃である。脳血管障害の臨床・研究、神経再生の研究も、生理学教室との連携においてこの時代にスタートした。

1996年、河瀬斌が教授に就任し、慶應の頭蓋底外科の地位は、世界的にも確立されるものとなった。他学との交流も活発となり、幾多の国内学会、国際学会が主宰された。

2010年、吉田一成が4代目教授に就任した。「技術の伝承と革新」「不得意分野の克服」をモットーに、慶應義塾大学・関連病院が一体となって、脳腫瘍、脳血管障害、頭部外傷、機能的疾患、先天性疾患などを対象に、トップレベルの脳神経外科医療の提供を目指して、同門一同、日々研鑚を積んでいる。

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